私は操り人形なの?

こんにちは タイムです

 

私はたまに自分が操り人形ではないのか?と疑ってしまう時があります

 

誰に操られているのか?というと、それは無意識の中にいて

 

いつもは表に現れない私自身です

 

私の中にはもう一人私がいて、その私は例えば年齢、性別、病気等に左右されない

 

存在です  私には、自分が赤ん坊だった時の記憶があるのですが、

 

ハイハイ出来るようになった頃、隣に父親が添い寝をして並んでいる事で

 

初めて自分と父親の体の大きさの違いに気付き衝撃をうけました

 

「同じ人間なのにこんなに大きさが違うのか!? 私の何倍あるのだろう?」

 

何倍という概念が赤ん坊の私にあったのは驚きですが、

 

まだ脳が成長中で完成していない時点でも、

 

表面意識とは別の魂目線では、感じ方が違うのではないか?

 

そう思う時があるのです

 

また、長女の場合ですが長女は十代の頃ずっと病気で、

 

体調には波がありました

 

ホルモンバランスとかも関係していたのかもしれませんが

 

体調の悪い時と良い時では、同じ人間か?と思うほど

 

人格が変わっていました

 

体調の悪い時は酷く悲観的で「もう私は何をやってもダメなんだ」

 

と、悲嘆にくれていたのに体調が戻ると

 

「私は(何でも)出来る!誰にも負けない!」

 

と自信と確信を持っていました

 

余りに両極端にガラリと変わってしまうので

 

ついていくのは大変でしたが、

 

体調が悪く悲嘆にくれている時、

 

「今は辛いけど病気のせいでそう思うだけで

 

それは本当の長女の気持ちではないよ

 

本当の長女はもっと強い人間だよ」

 

私はいつもそう言って励ましていました

 

私は病気で弱々しくなっていたとしてもそれは表面的な物で

 

本当の魂はそれに左右されない強さが長女にはあると

 

信じていたのです

 

人の心には色々な刺激等に左右される表面的な部分と

 

左右されない無意識の中のその人の本質の部分があるのかもしれません

 

でも私の場合、普通は表面に出てこない「無意識の中の私」が表に出てくる

 

と感じる時があります そして、「無意識の中の私」の意志によって

 

表面意識の私の心がガラリと変わり、行動までも変わると感じる時が

 

あるのです  そういう時私は「無意識の中の私」にコントロール

 

されている 表面意識の私はもしかしたら「無意識の中の私」の

 

操り人形ではないのか?そう感じるのです

 

例えば、私は40代の初め頃に自動車免許を取ったのですが、

 

私の中で免許は、普通は学生時代に取る物という意識がありました

 

「今さらこの年で▪▪ 取るのは恥ずかしい▪▪ 私に出来るはずがない」

 

そう思い免許を取るなんて考えた事もなかったのです

 

でもちょうどその頃、自宅の建て替えがあり、その工事中の何ヵ月かは

 

アパートに引っ越しをしていました

 

そして、そのアパートの前に偶然にも自動車教習所の送迎のバス乗場が

 

あったのです 自宅に戻ったらバス乗場まで大分歩かなければいけません

 

今、免許を取ろう! 私はそう思い付いたのです

 

でも、そこからが長かった 

 

ぐずぐずと勇気がなくて申し込みの電話ができないのです

 

いい加減電話しないと自宅に戻っても教習所通いが終わない

 

その時、「無意識の中の私」が表面に出て来ました

 

私は、「無意識の中の私」が体を動かし電話まで歩き教習所に

 

申し込んでいるのを傍観者の様に見ていました

 

その後「無意識の中の私」は

 

「今取らないと後で困る事になるから」 と、言ったのです

 

今思うとその言葉は本当に正しかった 

 

あの時免許を取らなかったら、歳老いた両親のいる実家に通ったり

 

病院の送迎、買い物等、車がなかったら私は何もできませんでした

 

今も義母の病院通いや諸々の用事がある時は車を使っています

 

私はたまに「無意識の中の私」の存在を感じる事があるのです

 

そして、「無意識の中の私」は私の知らない事を知っている

 

もしかしたら、未来もわかっているかもしれない

 

私はそう思うのです